「明日は家族で大凧合戦観にいこう!」
午前中に息子とそう約束したはずだった。
でも夕方になり、「明日、◯◯くんと遊ぶ約束してきた!」と、まっすぐに僕を見る息子がいる。
約束はあっけなく破られる。
自由な息子は、その時一番楽しいことを最優先する。
そこに僕はいない。
それが寂しくて、僕はこどものように拗ねてしまう。
妻は柔軟で、「じゃあ◯◯くんも一緒に行こうよ!」と新しい提案をするけれど、病的な人見知りを発揮した僕は、「俺はいいや。仕事追いついてないから、みんなで行ってきて」と言ってしまう。
僕が一番こどもだ。
家族3人で出かけることが、本当に少なくなった。
最後に家族で出かけたのはいつだろう?
春先に近くの温泉宿に泊まったことを思い出す。
今は梅雨入り前。
それ以来、家族3人で出かけた記憶はない。
僕の足の手術もあったが、小学2年生になって学童を辞めた頃から、息子は近所の友達と遊ぶほうが楽しくなったようだ。
それはそうだ。
だれにも怒られず、自由なコミュニティは、友達同士の社会にしか存在しない。
そこに親が入れば、自由な社会はたちまち崩壊する。
これは僕が今まで息子に接してきた結果なのか、と考えても後の祭り。
きっと息子は今以上に親から離れて、別のコミュニティで遊ぶようになるのだろう。
こどもが一緒にいてくれる時間は、一瞬だ。
その一瞬を、もっと大切にできれば…と、後からついつい考えてしまう。
夕方、息子がすぐそばのグラウンドに自転車の練習をしに行くと言って、一人で出かけていった。
少しして見に行くと、息子はちょうど家に戻ろうとしていた。
「もう帰るの?」と聞くと、
「うん、一周したからもう帰る」と息子。
「でも、パパが来たからまた自転車やりたくなった」
息子とふたり、再びグラウンドへ向かった。
いつの間にか、補助輪なしで自転車に乗れるようになっていた。
息子が傷つくのが怖くて、自転車から手を離せなかったのは親の僕。
毎日、新しい絆創膏を貼って帰ってくる息子の足は傷だらけだ。

目の前でまた転んで新しい傷を作った息子を見て、痛々しくて胸が締めつけられそうになった。
でも息子はすぐに立ち上がり、「もう一周できるまでやめない!」と、またグラウンドを走り出した。
なんだか、息子が急に大人になったように感じた。
「記録的な大雪が予想されます。十分に警戒してください」
そんな日に生まれた息子。
僕の中では、ずっとあの日のままの息子だったのかもしれない。
あれから7年が経ち、ひとりで自転車に乗れるようになった息子が目の前にいる。
ゆっくりしか歩けず、目の届く範囲でしか動かなかった息子。
そんな息子が自転車に乗って、遠くへ行こうとしている。
親として嬉しいことなのか。
それとも寂しいことなのか。
自分の気持ちは、まだ揺れている。
でも、今日も息子は転げながら笑っている。
それだけで、きっといいのだ。

息子を怒ってしまった日の、父の後悔を綴った記録はこちらから。
