
― 語り尽くせない記憶と、これからの味 ―
キムチは、いつも台所の片隅にあった。
特別な日だけでなく、なんでもない日の食卓にも、
ひとさじ添えるだけで、ご飯が進んでしまう魔法のような存在。
でも、大人になってから気づいたのは、
あのキムチには、ただの“味”以上のものが詰まっていたということだった。
母の手の中にあった、感覚のレシピ
私の母は、キムチを“目分量”で漬ける人だった。
にんにくはこのくらい、塩加減はこの手の重さで、
唐辛子の量は、匂いをかいで「よし」と言う。
レシピには残っていないけれど、
手の中に、すべてが記憶されているような漬け方だった。
幼い頃は、ただそれを見ていただけだったけれど、
いざ自分で漬けようとすると、その“感覚”がいかに奥深いかを思い知る。

語り尽くせないことばかり
母がどんな気持ちでキムチを漬けていたのか、
そのすべてを私は知らない。
忙しい日の中で、どんな思いで白菜を塩に漬けていたのか。
失敗して悔しがった夜もあったのか。
家族の健康を祈りながら、にんにくを刻んだこともあったのか。
聞きそびれてしまったこと、聞けなかったこと。
そういう記憶が、キムチを漬けるたびに浮かんでくる。
だから私はこの味について、語り尽くすことができない。
けれど、その“語り尽くせなさ”こそが、
私にとっての「家庭の味」なのかもしれない。

漬け続けるということは、祈ることに似ている
何年もキムチを漬けていると、
年によって、味が変わる。
同じ材料でも、気温や湿度で発酵の進み方が違う。
ヤンニョムの配合が微妙に変わってしまう日もある。
けれど、それでも漬け続ける。
これはきっと、味の完成形を求めているのではなく、
「続けること」に意味があるのだと、最近は思う。
毎年、新しい気持ちでキムチを漬けながら、
同じだけ、母との距離も測り直しているような気がするのだ。

この味を、次の誰かへ
教室でも、生徒さんたちにキムチを教える機会が増えた。
分量は書いてある。手順も丁寧に伝えている。
けれど、本当に伝えたいのはそこではなくて、
「家庭で育つ味」というものの尊さかもしれない。
あなたのキムチには、
きっとあなたの家のストーリーが宿る。
私のキムチには、母の記憶が静かに息づいている。
今日もまた、手を動かす
語り尽くせないキムチの話を、
私はこれからも少しずつ、書いていくのだろう。
そして何より、漬けていくのだと思う。
季節が巡り、白菜が出回りはじめた頃、
手が自然とヤンニョムを混ぜ始める。
にんにくを刻み、塩を振り、重石をのせる。
それは母から受け継いだ、小さな祈りのような手しごと。
きっとこれからも、ずっと続いていく。

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