第1話 小さな台所の音

誰かのために料理をすることは、いつの間にか、自分を整える時間になっていました。

これは、ひとりの女性と台所の物語です。


台所は、母の背中でできていた。
大きな流し台に向かって立つその肩は、いつも黙っていた。

亜希は小さな椅子にちょこんと座り、湯気の向こうに揺れる母の手を見ていた。

味噌汁の鍋、
干し椎茸の戻し汁、
煮物の甘い香り。

それらが混ざりあって、家のにおいになっていた。

母は几帳面だった。

人参の千切りは揃っていて、味噌は計量スプーンできっちり取られていた。

「なんでこんなにきれいなの?」

そう聞くと、母は少しだけ笑ってこう言う。

「食べる人のためだよ」

その言葉の意味は、子どもだった亜希にはよく分からなかった。
でも、その言葉が、心のどこかにしんと沈んだまま残っている。

ある冬の日。
亜希はうっかり鍋を触ってしまい、指先を火傷した。

泣きながら母にすがると、母はすぐに冷たい水をかけてくれた。
でも、

「危ないって言ったでしょう!」

そう低い声で言われ、亜希は声を殺して泣いた。
そのとき初めて、料理が「優しさ」と「こわさ」の両方を持っていることを知った。

それでも母の作るごはんは、いつも正しかった。
干し大根の煮物。
白いごはんに、焼き海苔。
お味噌汁の中の豆腐が、ふわっと浮かんで揺れていた。

夜、ふとんの中で目を閉じると、母の立てるまな板の音が、遠くから聞こえてくるような気がした。

それは、どんな子守唄よりも安心する音だった。

大人になった今、同じように包丁を持っても、母のようにはできない。
できないけれど、あの音だけは、私の中にずっと残っている。

そしてたぶん、それが、私が台所に立つ理由の最初のひとつだと思う。


目次

登場人物紹介

佐藤 亜希(さとう あき)

42歳。新潟市在住。フリーランスの編集者・ライター。
季節や気配に敏感な、少しだけ不器用なひと。
母であり、妻であり、ひとりの女性として──
台所の小さな時間に、自分を取り戻そうとしている。

高橋 澄子(たかはし すみこ)

亜希の母。現在は上越の山あいで暮らす。
几帳面で厳しい人だったが、味噌と煮物の味だけは、今でも亜希の体が覚えている。

全8話。毎週日曜21時に更新。

白菜キャラ

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この記事を書いた人

ひかりのアバター ひかり waktak cooking class講師

ひかり
韓国家庭料理教室「waktak cooking class」主宰。
中国東北部・朝鮮族の家庭で育ち、祖母や母から“家庭の味”の奥深さを学びました。

いまは新潟で、小さな台所から料理の記憶を伝えています。
香りや湯気とともに、記憶に残る家庭を、もう一度つくるように。

レッスンのことや日々の気づきは、InstagramやLINEでもお届けしています。

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