誰かのために料理をすることは、いつの間にか、自分を整える時間になっていました。
これは、ひとりの女性と台所の物語です。
台所は、母の背中でできていた。
大きな流し台に向かって立つその肩は、いつも黙っていた。
亜希は小さな椅子にちょこんと座り、湯気の向こうに揺れる母の手を見ていた。
味噌汁の鍋、
干し椎茸の戻し汁、
煮物の甘い香り。
それらが混ざりあって、家のにおいになっていた。
母は几帳面だった。
人参の千切りは揃っていて、味噌は計量スプーンできっちり取られていた。
「なんでこんなにきれいなの?」
そう聞くと、母は少しだけ笑ってこう言う。
「食べる人のためだよ」
その言葉の意味は、子どもだった亜希にはよく分からなかった。
でも、その言葉が、心のどこかにしんと沈んだまま残っている。
ある冬の日。
亜希はうっかり鍋を触ってしまい、指先を火傷した。
泣きながら母にすがると、母はすぐに冷たい水をかけてくれた。
でも、
「危ないって言ったでしょう!」
そう低い声で言われ、亜希は声を殺して泣いた。
そのとき初めて、料理が「優しさ」と「こわさ」の両方を持っていることを知った。
それでも母の作るごはんは、いつも正しかった。
干し大根の煮物。
白いごはんに、焼き海苔。
お味噌汁の中の豆腐が、ふわっと浮かんで揺れていた。
夜、ふとんの中で目を閉じると、母の立てるまな板の音が、遠くから聞こえてくるような気がした。
それは、どんな子守唄よりも安心する音だった。
大人になった今、同じように包丁を持っても、母のようにはできない。
できないけれど、あの音だけは、私の中にずっと残っている。
そしてたぶん、それが、私が台所に立つ理由の最初のひとつだと思う。
登場人物紹介
佐藤 亜希(さとう あき)
42歳。新潟市在住。フリーランスの編集者・ライター。
季節や気配に敏感な、少しだけ不器用なひと。
母であり、妻であり、ひとりの女性として──
台所の小さな時間に、自分を取り戻そうとしている。
高橋 澄子(たかはし すみこ)
亜希の母。現在は上越の山あいで暮らす。
几帳面で厳しい人だったが、味噌と煮物の味だけは、今でも亜希の体が覚えている。
全8話。毎週日曜21時に更新。