忘れてしまった記憶を、料理がそっと呼び起こすことがある。
この日、妻は延吉の味を思いがけず思い出した。
玄関で息子を見送った朝。
いつものように仕事の話になったのだけど、その日は、妻の声に少し熱がこもっていた。
「日本に来てもう20年以上も経ってるんだよ!ましてや故郷の延吉なんて、それ以上に帰ったことないし、食べたものの記憶なんて、私はほとんど覚えてないんだ。」
話の途中、突然そう言って声を上げた。
「わかってるよ。もう少し冷静になって。」
僕がそう返すと、妻は「ごめん…」と小さく言って、視線を落とした。
妻が韓国料理の先生となって、3年ほどが経つ。
その間、たくさんのレシピを考え、百人以上の生徒さんに韓国や中国の家庭料理を教えてきた。
けれど、毎月のテーマを考えるたびに、妻は「自分のルーツ」や「味の記憶」と、静かに格闘している。
「お母さんが来ていろいろ料理を作ってもらったけど、作ってもらってやっと、“そういえばこれも食べたな”って思うんだ」
その言葉の奥には、悔しさと、寂しさと、少しの焦りが滲んでいた。
妻は延吉という町で生まれ育ち、いま、その町にはもう帰る場所がない。
両親も今は別の地域に暮らしていて、幼い頃に食べた野菜や、家の匂いも、記憶の奥の奥にうずくまってしまっている。
そんな話をして、昼に僕が畑から家に戻ると、さっきまで落ち込んでいたはずの妻が、キッチンで嬉しそうに立っていた。
「昔食べたのを思い出して、これ作ってみたんだ!これ、次のレッスンのときに生徒さんに食べてもらいたいんだけど、試食してみて!」

え、朝の会話は?
僕が戸惑っているうちに、妻は大皿に試食というには多すぎるほどの量の料理をたっぷりと盛り付けてくれる。
「このレシピを試しに作ってみたらね、昔食べた記憶がある料理と合うなぁと思ったの。それを組み合わせてみたら、結構美味しくできたんだ」
あっという間に、全部食べてしまった。
なんなら、ダイエット中にも関わらず、ご飯をおかわりしてしまったくらいだ。
「ねえ、多分、ひかりが美味しいと思うものが、そのままひかりの記憶ってことなんじゃない?」
僕がそう言うと、妻は少しポカンとした顔をした。
「つまりさ、ひかりの舌とか体が“美味しい”って感じたものは、ひかりが今まで食べた記憶から来てるんだよ。」
まだ納得がいかないようだ。
「だからね、無理に思い出そうとしなくても、作ってみたいと思った料理を作って、それを美味しいと感じたら、もうそれは記憶なんだよ。ひかりの中に、ちゃんとあるんじゃない?」
そう説明すると、ようやく妻はふっと表情を緩めた。
じゃあ仕事に行くね!と言って畑に着くと、妻からのLINEが届いていた。
「さっきの話、ありがとう」
伝わってよかったな、と素直に思った。
僕は、車で30分走れば実家に帰れる。
でも、妻にはもう“帰る場所”がない。
これはつまり、車で30分走れば記憶を呼び覚ませるけど、妻にはそれがないと言うこと。
とても大きなハンデだと思う。
それでも、舌に残っている味の記憶や、手の感覚、野菜の切り方、そのすべてが妻のなかで静かに続いている。
僕が苦手なパクチーを、妻が美味しいと言って食べる。
その差も、たしかにそれぞれの“記憶”のちがいなんだと思う。

今日も妻は、家族のため、生徒さんのために台所に立っている。
誰かの「美味しい」が聞きたくて。
ただそれだけのために、湯気の立つ鍋の前で、夕飯が食べられないくらいに何度でも味を確かめている。
そしてその味は、記憶をたどらなくても、ちゃんと妻の中に帰ってきているのだ。
生徒さんに、「レッスンもいいけど、いつも出してくれる副菜がとても美味しい」と言われることを、妻はとても喜んでいる。
そんな副菜を楽しむのも、このレッスンの楽しみ方なのかもしれない。
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