料理教室のある日は、妻がお弁当を作ってくれます。
保温ポットに入った、三段のドカベン。
なんだかお弁当が嬉しくて、実は少し早めに昼休みに入るのが習慣になっています。

今日のお弁当は、
ごぼうのピリ辛焼き、
ゆで卵、
ゆでたブロッコリー。
白ごはんの真ん中には梅干し。
味噌汁も一緒に。
このブロッコリーが、いかにも妻らしいと思いました。
お弁当にありがちな水っぽくてふにゃふにゃのものではなく、茎の硬い部分はちゃんと皮を剥いて、余さず使われています。
コリコリとした食感が残っていて、噛むたびにちゃんと野菜の味がするのです。
なんてことはない、ありふれたお弁当。
でも、こういうお弁当がうれしいのです。
中学から高校まで、僕は母に毎日お弁当を作ってもらっていました。
その頃は「ありがとう」とか「おいしかった」とか、そんなことは言えませんでした。
ちょうどそんなお年頃…。
今になって、あの毎朝のお弁当がどれだけ大変だったか、よくわかります。
息子が学童へ通っていた頃、夏休みになると毎日お弁当が必要でした。
忙しい妻の代わりに、僕が息子のお弁当を作ることもありましたが、すぐにネタ切れになってしまいました。
ハンバーグ、
唐揚げ、
卵焼き、
カツ。
それが一周すると、もう手が止まります。
自由な息子は食事中も興味があることに目や意識が飛んでしまい、時間内にお弁当を食べられないこともよくあること。
そういえば、そんな息子の態度を怒ってしまったこともありました…。

「時間までに食べられなかった…」
と言いつつ、迎えに行った車の中で残りのお弁当を食べる姿がとても可愛らしい。
「あぁ、おいしかった!パパまた作って!」
なんて言うもんだから、ついつい次も張り切ってしまいます。
一方で、妻のお弁当は、派手ではありません。
でも、体にすっと入ってきます。
どこか無理がなく、余計なものがありません。
家庭の料理ってたぶんそういうことなのだと思います。
僕が作るお弁当は、どこかお誕生日会のような、よそ行きのお弁当。
食べたあと、体が少しだけ軽くなるような。
あたたかいままのごはんが、おなかだけでなく心にも届くような。
そんなお弁当が、妻のお弁当。
誰かを思って作られたものは、きっと、ちゃんと届いているのだと思います。

ほんの少しだけ、ブロッコリーの茹で方を注意深く見守ってみる。
それだけで、食べる人の心を満たしてくれるような気がします。
今日も、ふたを開けた瞬間に、小さなよろこびがありました。
いや、もしかして、開ける前からそれはあったのかもしれません。
これだけでまたひとつ、いい日になった気がします。