延吉の豊かな野菜と、
私の食の原風景
私の生まれ育った故郷、中国の延吉。
そこは、豊かな季節の野菜に囲まれた土地でした。
春になると野に芽吹く、
ヨムチェ
つるにんじんの葉
桔梗の根。
どれも日本ではなかなか出会えない、珍しい野菜たちです。
でも、子どものころの私にとっては、どれも当たり前にそばにあるものでした。
それを両親が丁寧にキムチに漬けたり、炒めたりしてくれる。
季節が巡るたびに違う野菜に出会えるのが、ただただ嬉しくて楽しみで─
それが、私の食の原風景です。
乾物があまりなかった暮らし。
両親は、「昔は乾物ってあまり使わなかったね」とよく言います。
それもそのはず、私たちの故郷には、生の季節野菜がたくさんあったから。
保存する必要がないほど、自然がくれる恵みは日々の食卓を満たしてくれました。

キムチ、塩漬け、発酵─もちろんありました。
でもそれは「保存のために仕方なく」ではなく、
“おいしく、長く、野菜を楽しむための知恵”
だったように思います。
ソウルで出会った精進料理。
来日してからも、何度もソウルに足を運ぶなかである日「精進料理教室」の存在を知りました。
動物性の食材を使わない料理
正直、それまでの私は、
「茶色っぽくて地味で、味も淡いのでは?」
という先入観を持っていました。
でも、教室で目にした料理たちは全然違いました。
ひと皿ごとにカラフルな野菜たちが美しく盛りつけられていて、香りも豊かで、食感も多彩で、満足感がとても高い。
動物性のものがなくても、こんなにも豊かでおいしいのかと、まさに目から鱗が落ちるような体験でした。

五観の偈(ごかんのげ)に
心がとまった日。
その教室で出会った言葉
「この一食が食卓にのぼるまで、どれだけの人の手間と時間がかかっているか」
これは、仏教の食事前に唱える「五観の偈」の一節です。
この言葉を聞いた瞬間、私の中にある野菜への想いが一気に重なりました。
私は、畑で10年以上、野菜や果物を育ててきました。農薬を使わずに育てられるものは、なるべく自然の状態で育てたりもしています。
小さな種を土に落とすところからはじまって、
水、光、風、温度、大地─
人の手だけでは育たないものを、毎日毎日気にかけてきました。
雨の日も、雪の日も、泥だらけになって。
「生きているもの」と向き合ってきたその日々の記憶が、五観の偈の言葉にぴたりと重なったのです。

韓国のお坊さん
ジョン・グワン氏と新潟の台所で。
そんなある日、知人を通じて思いもよらぬご縁が舞い込みました。
世界のシェフにも多大な影響を与えている、韓国の僧侶であり料理人でもある「ジョン・グワン」スニムが、新潟に来日。
なんと私はその通訳としてご一緒させていただくことになったのです。

スニムの隣で見ていたのは、言葉ではない「配慮のある手つき」と、「生き方そのものとしての料理」でした。
次々と野菜を手に取り、その声なき声に耳を澄ませるように料理にしていく姿。
それはまるで、祈るように食材と向き合う時間でした。
制限の中にある、知恵と自由。

私の活動を見てくれていた新潟のお寺の僧侶から、
「動物性・乳製品不使用のダイニングに参加しませんか」
と声をかけていただきました。

制限があると聞くと、「何を使えないのか」にばかり意識が向いてしまうものですが、私にとってはそれがむしろ、知恵と経験を新たに活かす場になりました。
野菜ひとつひとつと向き合い、どうやって無駄なく、美しく、そしておいしく仕上げるか。
それは、私の「料理をするという道のり」において、ひとつの画期的なステップだったと感じています。
私がキムチを漬け始める時に、「添加物を使わない」と制限をかけたことと少し似ているような気がします。


野菜をいただくことは、
命と心をいただくこと。
これからも、新潟の季節野菜をもっとたくさん堪能していきたい。
それぞれの野菜にある持ち味や色、香りを生かして、「今日の食卓をていねいに生きる」ことを、料理を通して伝えていきたい。
野菜というのは静かだけれど、とても雄弁な存在です。
その背景にある風土や人や手間、そこにこめられた想いに耳を傾けながらこれからも台所に立ち続けたいと思っています。
教室でも、季節の野菜と向き合う時間を、ゆっくりと大切に育てています。
よろしければ、あなたの食卓にも、そんな一皿を添えてみませんか。
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