
― 季節のはざまに届いた、母からの手しごと ―
今年の唐辛子葉は、少し遅れて届きました。
例年なら、夏の終わりから初秋にかけて摘まれるはずの若葉たちが、今年は秋風が吹いてからようやくやってきたのです。
葉の色はいつもより濃く、小ぶりで、手のひらの中で静かにしなる。
噛むと、ほのかな渋みと土の香り。
けれど私は、それがなんだかうれしくて、ありがたく手を動かしました。
捨てられがちな葉が、台所の主役になる日
唐辛子の葉は、実に比べて注目されることが少ないけれど、韓国では昔から立派な副菜です。
湯がいてごま油で和えたり、ご飯と炊き込んだり、炒め物にしたり。
私の母は、この唐辛子の葉を乾燥させて保存食にしています。
天日に干して、しっかり水分を飛ばした葉は、密閉しておけば年中使えます。
- 冬には、乾燥葉をご飯と一緒に炊き込んで香りを楽しむ。
- 春先には、戻してナムルにして、季節の端境期をつなぐ。
そんなふうにして、母は唐辛子の葉を一年中食卓にのせてきました。
「栄養あるんだから、捨てちゃもったいない」と笑う声が、今も耳に残っています。
少し遅れてやってきた季節も、悪くない
ことしの葉は、たしかにいつもより「遅め」でした。
でも、それが悪いというわけではありません。
遅く実った葉は、どこか落ち着いていて、
味にも香りにも、静けさがある気がするのです。
毎年、同じように季節がめぐると思っていても、
自然はほんの少しずつ違っていて、
それに合わせて私たちも、料理の手を少し変えていく。
そういう時間が、私はとても好きです。
湯気の向こうに見えるもの
さっと湯がいた唐辛子葉を、やさしくしぼって、ごま油と塩だけで調える。
そこに少しだけすりごまを添えると、ぐっと風味が引き立ちます。
お皿に盛ると、まるで山のなかの空気のようにしっとりとしていて、
少し濃い緑が、白いご飯のとなりで静かに佇んでくれます。
台所には、母の言葉と、私の手のぬくもりが、少しだけ混ざっているような気がして。
その感覚が、私はたまらなく好きなのです。
献立を考えることは、誰かを見つめること
このナムルを出した日の食卓には、味噌汁と煮物と、ほかにもう一品だけ。
にぎやかさではなく、“その日をどう過ごしたか”をそっと支えるような料理を並べると、
家族の表情も、少しやわらかくなるような気がします。
料理は、元気づけるだけじゃなく、
今日の自分や、目の前の人を「そのままでいい」と包みこむ力があるのかもしれません。

遅れてきたものの中にある、やさしさ
「なんでも、早ければいいってもんじゃないよ」
母がよくそう言っていました。
唐辛子葉も、季節も、暮らしも。
少し遅れてやってくるものの中には、急がなかったからこそ育った、やさしさや強さがあるのかもしれません。
そんなことを思いながら、私は今日も台所に立ちます。
乾いた葉を戻すように、
忘れていた記憶や、誰かの言葉がふっとよみがえる時間。
料理をするって、そういうことなのかもしれませんね。
