「保存食」ではなく、「思い出」としてのキムチ

私の実家では、毎年冬になると、両親が黙々とキムチを漬けていました。
白菜のひと葉ひと葉を丁寧に洗い、塩をふって下ごしらえする。
それを横目に見ながら、私はよく「どうしてこんなに手間のかかることをするんだろう」と思っていました。
でも今なら、母がなぜあれほど丁寧に漬けていたのか、わかる気がします。
それは保存のためではなく、遠く離れて暮らす家族を想っての「手紙」だったのだと。
母のキムチは、誰よりも早く季節を知らせてくれる便りでした。
「今年も寒くなったね。ちゃんと食べてる?」
そんな言葉を交わさなくても、キムチの味がその代わりをしてくれていました。
“日持ちする” だけじゃ伝わらない味

キムチは確かに保存食です。
でも、“保存できる” という効率的な目的を超えて、
そこに込められていたのは、「会えない時間を埋めるための味」でした。
市販のキムチと、家庭で漬けるキムチは、見た目は似ていても、
どこか味の奥行きが違う気がします。
それはたぶん、その人の手が入っているかどうか。
誰かのためを思って混ぜられた薬味、「そろそろこのくらいが好みかな」と感じる発酵の具合。
レシピでは計れない、心の感覚です。

料理教室で伝えたいのは、レシピの先にある「気持ち」

私が料理教室でお伝えしているのは、
「手順」よりも「気持ち」に近いものです。
キムチの漬け方も、そのひとつ。
もちろん教室では、発酵や塩加減、素材の扱い方もしっかりお伝えしますが、
それ以上に伝えたいのは、その料理がどんな記憶を運んでくれるかということ。
韓国料理は、母の知恵と、暮らしの工夫と、そしてなによりも「人を思う心」でできています。
それがこの教室の原点です。
レシピはある。でも、伝えたいのはそれだけじゃない。記憶で。

教室では、丁寧にまとめたオリジナルのレシピ冊子をお渡ししています。
でも実は、料理を学ぶうえで一番大切にしているのは、紙には書ききれない部分です。
それは、素材の感触や香りの変化。
混ぜる手のリズムや、火加減の微妙な見極め。
そういった「身体で感じること」や「誰かを想ってつくる気持ち」こそが、
家庭料理のいちばん大事なところだと思っています。
SNSではレシピを公開していません。
それは、味をまねるだけでは伝わらない、背景にある“想い”まで届けたいからです。

キムチは、ただの発酵食品ではありませんでした。
それは、母から娘へ。家族から家族へ。
姿の見えない「思いやりの手紙」だったのです。
料理を通して、記憶がつながり、
その記憶がまた、次の誰かを想う力になる。
そんな料理の力を、これからも大切に伝えていきたいと思います。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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