母とキッチンに立って気づいた、
本当の学び

「料理教室って、なんのためにあるの?」
そう聞かれたら私は迷わずこう答えます。
「知恵をそっと共有する場所なんです」と。
中国から両親が5年ぶりに来日しました。
流行り病の影響で、毎日のようにビデオ通話で顔を見てはいたものの、いざ対面して驚いたのは想像以上に身体が弱っていたことでした。
そして、私自身も年齢を重ねたことを静かに実感しました。
アトリエを夢見ていた、あの頃

私が料理教室を始めたばかりの頃、自分のアトリエを持つことはずっと憧れでした。
だけど現実は甘くなく、当時夫と営んでいた農業は失敗続き。
妊娠・出産も重なり、アトリエの夢は遠のいていきました。
「夢って、叶わないものなのかな」
そんな気持ちが心の奥に渦巻いていたのを覚えています。
小さな農作業小屋が、
学びのはじまりだった

息子が生まれて、私は農業から一線を引き、キムチの製造販売に力を入れるようになります。
でも、それまで母の姿を見ていたとはいえ、自分で漬けるキムチはまったくの別物でした。
うまくいかず、悩み続けた私は、中国にいる両親を農作業小屋に呼び寄せ、一緒に暮らしながら、キムチの漬け方をみっちり教わることにしました。
その小屋が、私にとっての最初の「料理教室」だったのかもしれません。
教える人と、学ぶ人がいて。
でも、そこにあったのは“教科書”でも“レシピ”でもなく、知恵と記憶でした。

キムチが運んでくれた、人生の転機

ありがたいことに、母から教わったキムチは、全国からたくさんの反響をいただきました。
夫の農業も少しずつ安定し、念願だったアトリエの建設にもご縁が繋がりました。
奇しくも、あんなに苦労していた農業がご縁となり、農家の方から紹介していただいたのが、今のアトリエの土地です。
夢は時間がかかっても、あきらめなければいつか形になる。
あの頃の自分に、今ならそう言えます。
そして今、母ともう一度キッチンに立つ

今回の来日で、両親は私のアトリエに足を踏み入れました。
でもその姿は、かつて私にキムチを教えてくれた頃とは違います。
足取りもゆっくりで、立っているのもやっとな母が、それでも昔と変わらず、キッチンに立ち、こう教えてくれるのです。
「大根は一回塩をまぶしてから干すと色が綺麗で歯応えがいいよ」
「米粉は挽きたてじゃないと、色が悪くなるよ」
私が料理教室を始めて3年以上。
数々のシェフの技術も、書籍も、研鑽も重ねてきたけれど、母の一言には、どれにも勝る“実感”があるのです。
表向きの技術や知識も大切だけど、暮らしの中の知恵は、とても心に響きます。
料理教室はレシピを伝える場所じゃない

料理教室とは何か。
それは、完璧なレシピを共有するだけの場所ではないと、私は今思っています。
大切なのは、“その人が持っている知恵”を、そっと共有しあえること。
私が持っているものは全てお渡しする。
逆に生徒さんから知恵をいただくこともあり、一緒に参加している生徒さんでその知恵を共有できる場として料理教室があってもいいのだと思います。
うまくいかない時があってもいい。しょっぱすぎる日があってもいい。
それでも一緒にキッチンに立ち、失敗も学びも共にすることが、料理教室という場所に、何より大切な“あたたかさ”を生むのだと思います。

家庭の味こそ、
世界にひとつだけの“教科書”

母の手を見ていると、レシピに書かれていない大切なことが、たくさん詰まっています。
それは、季節との向き合い方であり、塩の感覚であり、人を思う気持ちです。
その全部が韓国の家庭料理として私に流れ込み、そして今、生徒さんたちへと受け継がれています。
料理教室は、“料理を教える場”ではなく、
“家庭の記憶を共有する場”であることを、母とキッチンに立ちながら改めて思いました。
もし料理教室に興味を持ってくれたなら

私、waktak cooking class講師ひかりのアトリエでは、「誰かを思う料理」を、少人数でゆっくりと味わっていただいています。
もしも今、
・暮らしの中で自分の時間を少し持ちたい方
・母から娘受け継がれた家庭の味に触れたい方
がいたら、
ぜひ、waktak cooking class のレッスンページを覗いてみてください。

料理教室とは、
「知恵をそっと共有する場所」
- 料理教室の本質は、“伝える”ではなく“共有する”こと
- 母から教わった家庭料理は、レシピではなく生きた知恵
- 生徒さんとの時間もまた、記憶がつながるあたたかい場になる
- 料理ができる喜びよりも、「誰かと一緒に作る」ことの深さに気づく
このブログを読んだあなたへ

母が日本に来てくれるのはきっとこれが最後。
だから今この時間を、大切にキッチンで重ねています。
この文章を読んでくださった方の中にも、きっと「誰かの味」が心に残っていると思います。
その記憶とともに、一緒に台所に立てたら、こんなに嬉しいことはありません。