
― 発酵の台所に宿る、祈りのような手しごと ―
大豆から生まれた、豆腐と味噌。
米から生まれた、味醂と酒粕。
この一文を頭の中で繰り返すと、なんだか心が静かになります。
食べ物が、ただの「栄養」ではなく、大地と人をつなぐ命の循環だということを思い出させてくれるからです。
発酵という「時間の手しごと」
味噌や味醂、酒粕。
これらはすべて、すぐにはできません。
時間がかかる、というのが最大の特徴です。
大豆を煮て、麹と合わせて、長い月日をかけて発酵させる。
米を蒸して、糖化させ、さらに酒粕として最後まで使い切る。
「待つ」という手しごとが、そこにはあります。
そしてその間、人の手は、決して“何もしない”わけではありません。
毎日、様子を見て、混ぜて、空気に触れさせて、育てていく。
料理は、手だけでなく、心で関わるもの。
発酵食品は、その象徴のような存在だと私は思っています。

命を、捨てずに生かしきるという考え方
豆腐を作ったときに出る「おから」。
米を搾った後に残る「酒粕」。
昔の人たちは、こうした“副産物”を捨てませんでした。
むしろ、そこにこそ栄養があると知っていて、別の料理に生かしていたのです。
- おからを炒めて煮物に
- 酒粕で粕汁や漬け物を
- 味噌の底をすくって、炒め物に使う
食べ物を「使い切る」という考え方は、
命に敬意を払うことの、もっとも身近なかたちかもしれません。

台所が、祈りの場所になるとき
私は、豆腐を切るときや、味噌を味見するときに、
どこかで「いただきます」と言っているような気持ちになります。
それは口に出さなくても、手の動きや心の在り方に出てくるもので、
きっと昔の人たちも、同じような気持ちで料理をしていたのではないかと思うのです。
台所が、ただの作業場ではなく、“命と向き合う場”になる瞬間。
そんな時間を、毎日の中で大切にできたらと思います。

伝えたいのは、技術よりも「感じる力」
料理教室でも、味噌や豆腐を使ったレシピをよくご紹介します。
でも本当に伝えたいのは、「こうやって作る」ではなく、
「なぜこれを作るのか」「どんなふうに手をかけるか」といった、背景にある気持ちです。
大豆や米という身近な食材に、もう一度、目を向けてみる。
その向こうにある季節や土や、誰かの手のぬくもりを感じてみる。
そんな台所の時間は、静かで、あたたかくて、
どこか祈りに似たものがあると、私は思うのです。

まとめ|食べものは、命から命へ
- 大豆から生まれた豆腐と味噌
- 米から生まれた味醂と酒粕
そのひとつひとつに、人の知恵と自然の力が宿っていて、
命は、かたちを変えながら、次の命へとつながっていく。
その尊さを、今日も台所で受け取っていきたいと思います。
