突拍子もないことを想像してその考えに溺れてしまうことがよくあります。
僕の頭の中にはいつも、「余計なこと」がぐるぐると渦巻いているのです。
今日「ふと」考えが浮かんてきたことが、
「名前」ってそもそも必要なんだっけ?
という問い。
誰に何を言われたわけでもなく、テレビもYouTubeもラジオも見ていない。
本当に「ふと」頭の中に湧いてきた疑問です。
きっかけは妻が作る料理でした。
この、鶏の手羽元とじゃがいもを辛いソースで煮込んだ料理。
確実に韓国料理であることは間違いないのですが、その料理名を僕は知りません。
でもそこで「ふと」思ったんです。
料理名って、必要?
目の前に出された美味しい料理を美味しく食べること以上に、何が必要なのだろうと思ったんですね。
おそらく、便利だから名前があるのではないかと思いました。
「今日何が食べたい?」
「今日はカレーがいい!」
「今日何が食べたい?」
「今日はジャガイモとかをスパイスで煮込んだあれがいい!」
どちらもなんとなく同じ料理に聞こえますね。
でもそれは僕が「カレー」という概念を知っているからなのでしょうか。
でもこれを書きながらまた「ふと」思ったことがあります。
そもそも名前がなかったら言語なんて成立しないのではないだろうか。
だって、「ジャガイモ」だって「スパイス」だってひとつの名前なわけで、それがなかったらなんの具材を何で煮込むのかを説明できないわけで。
つまりは、名前というものは一つの「概念」を表現するものなのではないかと今「ふと」思いました。
「ジャガイモ」という野菜が、存在しているという概念。
スパイスというものが存在しているという概念。
高松かずゆきという人間が存在しているという概念。
便利だからつけたというよりも、この世界に存在しているという概念が名前になっているのではないかという結論に今行き着いています。
バケツの水をひっくり返したような雨が降っている今日。
夏から今日にかけてこのような雨しか降っていませんでした。
「しとしと」という言葉自体がなくなってしまうのではないかと恐怖に慄いている自分がいます。
昨日食べたあの辛い鶏肉の料理、妻に名前を聞かないとな。
(ダッケジャンという料理だったそうです)