鉄釜のごはんと母の背中

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ごはんの匂いで目が覚めた朝

土鍋で炊いたご飯のおこげ

父は朝起きたら必ず窓を全開にしていました。

せっかく布団が暖かいのに、外から入ってくるその寒さがいつも嫌で、まだ寝ていたいのにと布団の中でしばらく丸まる。

そんな朝、まだ目が覚めきらないうちに台所から聞こえる「シュウウ…」という蒸気の音。

鉄釜(チョルガマ)から立ちのぼる香ばしい香りと、焦げそうなごはんの香りで、布団の中の子どもだった私の身体は自然と動きました。

台所には、母の背中。

布団のぬくもりを残したまま、母のまわりをうろうろしながら目をこすり、朝の儀式のように「今日はなに?」と聞くのが日課でした。

鉄釜で炊かれたごはんはふっくらして、でも芯の強い米粒が立っていて、なにより底にできた「おこげ」が大好物でした。

「おこげはごちそう」

だと母は言っていたけれど、炊飯器しか知らない夫にはなかなか通じない感覚でした。

でもあの香ばしさとちょっとした苦みは、子どもの私にとって「家庭の味」そのものでした。

鉄釜が教えてくれた、“ごはんは料理”

母がよく作った茄子の炊き込みご飯

家庭での料理というと、おかずやスープに目がいきがちだけれど、母が毎朝鉄釜で炊いてくれていた「ごはん」こそが料理の原点だったと今になって思います。

火加減、時間、水加減。

母は時計を見ずに、その日の湿度やお米の種類で、まるで五感でごはんを炊いていました。

そして私たちに伝えたかったのは、「ごはんが主役」という考え方だったのかもしれません。

何もおかずがなくても、おこげごはんにごま油をちょっと垂らし、塩をふってお湯を入れて混ぜたら、それだけで食卓は豊かだった。

派手さはないけど滋味深い。
始めの印象よりも、最後の余韻。

そういう原風景が、私の中の料理観のベースになっている気がします。

母の背中に、料理の姿勢を学んだ

キッチンで料理をしている様子

子どもの頃は、「料理上手な母」なんて思ったことはありませんでした。

それでも、手際よく動く母の背中を毎日見ていたことで、私は知らず知らずのうちに「料理する姿勢」を覚えていたんだと思います。

段取りや盛り付けよりも、
「この人は、誰かのために作っている」
という、静かで強い意志のようなものが、あの背中から伝わってきていたのです。

いつも自分以外の誰かのことを心配して、

「モゴ!モゴ!(もっと食べなさい!)」

と台所と食卓を行き来している母の姿は、私がこどもの頃も、大人になった今でも変わりありません。

今、私が台所に立つとき心に思い浮かぶのはレシピではなく、母の背中と鉄釜の音です。

記憶に残るごはんは、背中から伝わる

誰もいない静かな夜のアトリエの様子

「おいしい」とは、技術や食材の良さだけでは語れないもの。

家庭料理の根っこには、「誰かのために」ごはんを炊く、あのひたむきな時間があるのではないでしょうか。

鉄釜のごはんの香りが、今でもふと鼻をかすめると、私は一瞬であの頃に戻ります。
そして、台所でごはんを炊く母の背中を、ありありと思い出すのです。

白菜キャラ

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