家族で育てるキムチの物語①

母印前

僕が最初に義母のキムチを食べたのは、ひかりとの結婚をお願いしに行く時だった。

「チョヌン　タカマツラゴ　ハムニダ………。」

韓国へ飛び立つ前、何度も何度も繰り返しリピートし、頭に叩き込み口に覚えさせたその後の言葉が、ひかりの両親を目の前にした途端、出てこなくなった。

外は道路が凍るくらいの、文字通り凍てつく寒さだというのに、韓国の家の中はオンドルで不自然なほど温かい。
当時の僕はサラリーマンを辞め、夏用のスーツ１着しか持っておらず、寒いくらいの服装にも関わらず、汗が止まらなかった。

それがオンドルの暑さなのか、緊張によるものなのかはわからなかったが、ひかりの家族が涼しい顔で僕を見ている中、ただ一人汗だくで次の言葉を思い出すのに必死だった。

その後のことはよく覚えていない。
僕が最後まで覚えた韓国語を言えたのか、それとも途中で諦めたのか、それすらも覚えていないのだ。

覚えているのは、その後ひかりの父から何やら念書のようなものを差し出されたことだ。

父の手書きで書かれたそれは、ハングルを知らない僕でも達筆だとわかるくらいの文字で、父の思いの強さと厳格さを物語っており、また僕の額からは汗が溢れ出てきた。

「大切な娘を泣かせるようなことがあったら、絶対に許しません」

そんなことが書かれているとひかりが通訳をしてくれ、僕はその念書に母印を押した。
僕からの結婚の申し出は、こうやってひかりの両親から許されたのだ。

いや、この時点ではまだ、心の中では結婚の許しはもらっていなかったのかもしれない。
実際に、ひかりの母親は僕がたどたどしく韓国語を話し始めてからそれまで、ただただ泣いていたからだ。
それでも、母印前・母印後で、ひかりの両親は心の境界線を引いたのだろう。

「結婚は許すが、お前いいか、見てるぞ」
そんな気迫さえ感じられ、僕はまだひかりの両親と目を合わせることができなかった。

母印後

そんなやりとりがあった後、ひかりの父はおもむろに酒とショットグラスを持ってきた。
茅台酒という、アルコール度数53%もある中国では高級とされている白酒である。

彼は僕にそのショットグラスを差し出し、その酒を僕のショットグラスなみなみにつぐと、その茅台酒を僕に差し出し、「俺のグラスにつげ」と無言で僕にうったえる。
僕も同じように、彼のグラスになみなみと酒を注ぐと、乾杯をして一気に飲み干した。
僕も彼がそうしたように、同じくその酒を一気に飲み干すと、喉が焼けるように熱くなり、喉から食道へ、食道から胃にその酒が入っていく様子がわかるような感覚になり、最後はむせてゲホゲホと咳き込んだ。

「３杯続けて飲むのが礼儀だ」

ひかりの通訳から彼がそんなことを言っているとわかり、彼はまた僕のショットグラスに酒をなみなみ注いだ。

地元では酒豪で通っている僕だ。
しかも、農家との飲み会でも酒の強さは定評があった。
よっしゃやってやる！と何故か謎の闘争心が芽生え、僕はそのグラスも一気に飲み干した。

そして、さらに彼だなみなみと注いだ酒を飲み干すと、初めてひかりの父がこちらに笑みをこぼしたのだ。
その笑みを見た途端僕の緊張は一気にとけ、僕も彼に対して笑顔で返した。

思えば、朝起きた時からこの時まで僕の顔は緊張でこわばっており、初めて顔が緩んだ瞬間だったのかもしれない。

キッチンでは、ひかりの姉が食事の用意をしてくれていた。
53％のアルコールを３倍飲んだせいで頭がグラグラと揺れていたが、そんな姿を見せまいと意識的にシャキッと歩く僕の姿はむしろ不自然で、からくり人形のような格好で食卓についた。

韓国で初めて食べた固形物は、白菜キムチとキムチチゲだった。

こうして僕は、ひかりの家族と出会い、その人たちがずっと作り続けてきたキムチと出会ったのだ。

このシリーズでは、僕の記憶の中で断片的にある家族とキムチの物語を綴っていこうと思う。